
今年も終戦の日がやってきました。(と、言いますか、色々と考えているうちに日にちが過ぎてしまいましたが・・)
写真は私が学生時代に日本政府の公式派遣団員としてサイパンへ戦没者の遺骨収集事業にボランティア参加したときのもの。私たちの後ろにあるのは無数の戦没者の遺骨の山です。
8月15日、今年の靖国神社はこれまでにない参拝者であふれかえったとか・・・・
テレビや新聞では戦争の悲惨さを伝えるドキュメンタリーを連日のように伝えています。しかし、戦争を知らない世代の私たちにとってその体験談ははたしてどの程度現実的に受け止められているのだろうか?と、ふと疑問に思うことがあります。なにか・・・この、不謹慎な言い方ですが、毎年この時期になると繰り返される年中行事のような・・・・いや、やはり不謹慎だな俺は・・・
私自身、学生時代にはボランティア活動で戦没者の遺骨を収集するために硫黄島やペリリュー島、サイパンなどかつての戦地におもむき、草むしたかばねをこの手にとった経験があります。そんな私ですが、戦争ということについて本当の意味でのリアリティー(現実感)に希薄なところがあって、小野田さんのドキュメントよりマラソンの中継をみてしまったり・・・
さて、私たちが本当に戦争という行為を避けたいなら、本当の意味で歴史に学ぶということをもっと真剣にしなければいけない時期に来ていると私は考えます。
歴史に学ぶということは「過去の戦争体験を語り継ぐ。」ということとはまったく違った次元の問題です。それは平たく言えば「どうして戦争はおきたのか?どうして戦争をしなければならなかったのか?どうして戦争を止められなかったのか?」といったことについて一つ一つ検証してそれを防ぐためのセーフティーガードを法制度などの形にして行くことが必要であるということ。それとそういう時期に来ているといったのは、やはりその作業というのは戦争の当事者にはなかなか辛い作業であり、感情の面からもそれはやはり難しいことであったろうと思うからです。しかし、今は戦争を知らない、あるいは当時は子供であって実際に戦争に加わったり遂行したりした人ではない、いわば第三者が社会の主体的な構成員となりつつありますからこれからは冷静な検証作業ができる“時期に来ている”のではないか?と思うからです。
私の浅はかな知識で言うならば、戦争をしなければならなかったのは、当時帝国主義の時代、アジアで唯一近代化を成し遂げた日本と欧米とがアジア地域で植民化の覇権を争い、利害が衝突した結果である。と考えます。
しかし、国益の衝突などというものは今だって世界の各国間でおきていることであり、それだけで戦争などといことにはならない。やはりそこにはもっとほかの要素があると考えます。
例えば政府による情報の統制ということが第一に挙げられると思います。プロバガンダなんて言葉はすでに古臭いようでもありますが政府が各種の情報を占有し、統制をはかりそして大本営発表といった具合に国民世論を操作するようなことがあってはいけません。これこそ戦争がおきて行く為の大きな要素であると思うのです。
あるいは軍事同盟。いま日本とアメリカは同盟国ということになっていますが、太平洋(大東亜)戦争当時は日独伊の三国による同盟があり、こうした関係があったことが世界大戦へと国を導く要因であったのではないか・・・
要素を挙げれば他にも色々と有りそうですがこうした史実を一つ一つ検証しながら、では今の日本がどうなのか?個人情報保護法や住基ネットは情報統制に当たるのかのか否か?日米の軍事同盟は?集団安全保障は?
歴史の検証とそれに基づく現状分析が国民の間に浸透し、例えば現下のアジア情勢をどうとらえるのか?日本の閉鎖的経済水域を侵して海洋調査を行う中国とどのように外交すべきか?はたまた北朝鮮とは・・・といったことの議論が深まることこそ戦争の歴史に学ぶということなのではないか?
そんなことを思う今日この頃です。