今日のブログは昨日の続きです。
重度の知的障がいのある方に対する丁寧な意思の確認と、その人の希望に合った生活環境を作ることで、それまで部屋に鍵をかけられたり、車いすに拘束されていたような方が生き生きと日々を過ごせるようになる。そんな福祉が実現できるんだというという事を、先進的な取り組みをしている民間福祉施設の視察を通じて感じたと書きました。
そこで「だったら今までの神奈川県の県立施設での支援は何だったの?間違っていたということ?」という疑問が浮かびます。それについても私は県立の施設「中井やまゆり園」を視察しながら思うところがありました。
決して間違っていたわけではないのです。今は適切でないとされるケアも、古びてしまった建物も、かつては社会から理解されるサービスだったのです。それを長く続けて来て、気が付いたらもっと新しく適切なケアのあり方やそれを求める社会環境が生まれていたということ。そしてここが大事だと思うのですが、公立の施設だからこそ、絶対に事故や怪我があっていけないという意識が強く、それがゆえに強度な行動障がいのあるご利用者を、個室で静かにそっとしておいてあげるというケアの方向に向かいがちであったのではないかと。更に障がいのある人にとって県立施設は「命のセーフティーネット」なんていう言われ方もしてきたものだから、その人たちを最後までお世話しなけれぱいけないという意識もまた強かった。それが今は「終(つい)の棲家じゃダメなんだ」と言われるように、考え方が変化しこれまでの県の福祉サービスとの間にギャップが生まれました。そしてそれに気づいたきっかけとなったのが、あの津久井やまゆり園事件での犯人の動機でした。
一方、昨日視察した民間施設では、入所したご利用者を翌日から就労支援型の会社へいざないます。途中公道を歩いて移動することもあるし、刃物を持って作業することもあります。人はたとえ障がいがあろうとも、仕事などを通じてだれかの役に立っているという実感こそが喜びであり、生きがいにつながるのだということはよく言われることです。この民間施設ではどんなに強い行動障がいのある方でもそれを実現することでその人の生き生きとした生活を実現し、通過型の施設として利用者が近いうちにそこを出て、グループホームでの自立した生活ができるよう支援しています。でもそれには事故や怪我などの「リスク」が伴います。
これから先、神奈川県がこの民間施設のような福祉を実践して行こうとするならば、そのリスクをどう受け止めていくかということが大事なカギになると私は思います。
私は視察で民間施設の担当の方にこのことを質問してみました。するとこんな答えが返って来ました。
「うちの施設利用者のように道を歩いて職場に向かっても、県立施設のように部屋に一人で閉じ込められていてもどちらも事故は起きるし怪我もします。全体を見たら事故や怪我の発生率はどちらもそんなに変わらないと思います。問題はその人が納得して生き生きとして暮らしている中で起きた事故と、不本意ながら拘束された状態の中で起きた事故とでは、本人、家族はもとより、社会の評価はまったく違うということだと思います」
まったくその通りだと思いました。
障がい当事者の方の意思を確認して福祉を提供することが本当に大事なんだと思いました。

※視察先の民間施設「てらん広場」では普通の陶器の食器を使っています。という説明を受けているところ。これだってリスクと言えばリスク。でも普通の生活を実現するという意味では大切なもの。