思想というものは、下手をすれば信じ込んだ人の思考を型にはめ、言動を隘路に追い込み、営みを窮屈なものにし、時には凶行に走らせてしまう。
昨日の神奈川新聞の記事を興味深く、さもありなんとの思いで読みました。それはあの津久井やまゆり園事件の植松容疑者がニーチェの超人思想に傾倒しているとの記事。
かつて私も学生時代には右翼、左翼の思想に深い興味を持っていた時期がありました。しかし私自身根がいい加減な人間でしたので、こんなことばかり言ってると自分の言動がどんどんと制約されてしまうと思ってそこからは卒業したものです。しかし、仲間の中には自分の主張に自分が縛られて、どんどんと深みにはまってしまう人もいました。
今週から植松容疑者に対する裁判が始まります。
この裁判にとって大事なことは、植松容疑者による障がい者に対する差別的な言動が、インターネットなどを通じて広がり、彼の断片的な言葉が後世に遺され、勝手な解釈が社会にはびこり、共鳴するような人が出ることを防ぐこと。そのために事件を起こした動機や、彼の人格形成についての科学的、客観的な問題点を明らかにして、その考えが「間違っている」ということをしっかりと、明確に証明することが大事だと思います。
思想家の残す言葉というのはあえて難解で、どのようにも解釈できるもの。そんなものを自分勝手に解釈して精神を奪われるのはとても危険なことだと私は思うのです。植松容疑者はニーチェに学んで事件を起こしたわけではなく、逮捕後に拘置所でたまたま読んだコミック本でニーチェを知り、難解な言葉を自分なりに解釈して、自分を正当化するために利用しているだけのこと。
ちなみに話は別ですが、県知事は裁判を通じて説明されて行く、施設の運営者(かながわ共同会)のことに興味をお持ちのようですが、それはまるで本質的なことでは無く、大切なことから人々の視線をそらしてしまいかねない事だと私は思います。
2020年01月05日
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